作・演出:岡田利規
音楽監督・演奏:内橋和久
出演:森山未來、片桐はいり、七尾旅人ほか
「未練の幽霊と怪物」のクリエーションの一部としての配信
「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」がKAATのYouTubeチャンネルで配信された。
配信は6/27、28の2回。2020.6.28.(日)16時からの回を観た。
KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「未練の幽霊と怪物」の公演が新型コロナウイルス(COVID-19)によって中止になり(このフレーズを何回書けばいいのだろう)、作品のクリエーションの一部として、作品の一部が配信で発表された。
(その後、完全版の演劇公演は2021年6月~に実施)
アフタートークでは岡田利規とKAAT芸術監督の白井晃との対談があった。
抱えたままの未練を語る夢幻能
新国立競技場のデザイン問題をめぐる建築家ザハ・ハディドの『挫波(ザハ)』、長期間停止したまま廃炉になった高速増殖炉もんじゅの『敦賀(もんじゅ)』の思いを語る2作品。
幽霊が主人公になり成仏できない理由を語る「夢幻能」の構造を借りて、幽霊や怪物を生み出す社会を投射する。
演劇で夢幻能の借用は珍しくないが、この作品はまさに能だった。
未練を語る内容、旅行者の遭遇と近所の人の解説という構造、邦楽を思わせる音楽、ダンサー2人による踊り、歌。
七尾旅人の歌はまさに謡。台詞からの流れが呑み込まれるようだった。
ダンスも舞だと思った。チェルフィッチュの体の動きは演出意図だけ感じてしまって好きじゃないのだが、この踊りは台詞と別の次元で同じ強さで思いを伝えて、複合的だった。
テーブルの上が舞台
画面には窓から道路が見える小部屋にテーブルが置かれている様子が映されている。
(録画のようだが、中継みたいに見える)
テーブルの上には小さなカタログスタンドのような台がそのつど運ばれてきて、そこに演奏者や俳優が一人ずつ映される。
Zoomによる収録なのだが、Zoomの画面そのままではなく、小さな台にプロジェクションマッピングで投影されて、その外にテーブル、そしてその外に部屋や道路という外枠が用意されている。
道路を人が気付かずに通り過ぎていく。夕方で日が暮れていくのは薪能みたい。
人が集っているようでいないようなこの画面作りも、幻の場を共有しているようで、夢幻能の力強い後押しになっていた。舞台だとこんなに幻の人間という感覚を出すのは難しいかも。
正直俳優の動きはもっと大きく見たいと思ったが、見ようとしないと見えにくいのも集中するのに一役買った。
コロナ下のリモート収録配信はそろそろ終わりだろうが、4か月のいろいろな試行錯誤を受けて、最後にここまできたという感想を持った。
濃く立ち上がる幽玄
オリンピックで日本中盛り上がっているはずの6月の上演だから、新国立競技場のデザイン問題を扱う舞台だったらしい。
決定していたスタジアムのデザインがひっくり返されたのは、それ自体もコスト問題をマイノリティに責任転嫁したような強い政治色を感じたし、その後あまりたたずに建築家ザハ・ハディドが亡くなり後味が悪かった。
ザハやもんじゅを主人公に据えて未練を語ることで、すぐに忘れた社会、うやむやにムードで押し流して決める社会を映し出していた。
生み出された未練、思いが濃く立ち上がる。
すーっと異界の者が通り過ぎたような寒さを感じた。
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